黒澤明を訪ねて38年 -『乱』の記録映像をなぜ今、公開するのか

日本映画の巨人、黒澤明。『七人の侍』をはじめとする大作を世に送り出し、国内外の映画人から敬愛されてきた映画監督である。黒澤映画を見た観客から「自分も映画監督になりたい」と次世代の映画監督を多々排出したことに間違いない。

河村光彦もその1人である。大学受験中に黒澤明の作品と出会いから映画制作に目覚め、驚くことに大学時代には黒澤明の集大成である『乱』の撮影現場に参加した。当時はメイキング映像班の一員として黒澤監督が創作する姿を捉え続けていた。

だが、そのメイキング映像と離ればなれになってしまう。本来は『乱』の制作会社から独立した体制でメイキング映像を撮影していたが、黒澤エンタープライズの社長が権利を主張して映像テープを持ち去った。

長い時を経て自分が撮った映像テープと再会でき、38年後にドキュメンタリー映画『Lifework of Akira Kurosawa』としてやっと世に公表することができた。遂にその映画の公開できた達成感を本人に伺った。

「黒澤監督に出会う前に目指したのは、いわゆる黒澤明が作ってきた映画を目指す。そういう若い監督志望の青年だったのです、今はもう61歳になりました。」そう謙遜しつつも、映画監督としてその道すじを語る河村氏の目つきには衰えを感じなかった。

 

【読者限定】Lifework of Akira Kurosawa 公開!

今回は小誌の読者に向けて、特別に河村監督のドキュメンタリー映画『Lifework of Akira Kurosawa』を公開します。

黒澤明のライフワークとも言える『乱』での撮影現場の様子が伺える貴重な映像です。

河村さんの積年の思いが詰まっている作品に仕上がっているのでぜひ一見を。

 

 

映画を観る楽しさ

子供時代の河村さん

小さい頃に『ガメラ』とか『ゴジラ』とかの怪獣映画を母にせがんで見に行っていました。小学校6年生のときには『燃えよドラゴン』でブルース・リーに出会い、1回では見足りず10回ぐらいは見に行きました。そこから1人で通うようになり、アラン・ドロン、ヴィスコンティ、フェリーニなど見ました。アメリカ映画だと『ポセイドンアドベンチャー』とか『ジョーズ』とか。

中学3年の時にテレビで『七人の侍』を見ました。「とても面白いな」という印象は持ちましたが、まだ「映画監督になりたい」という気持ちはありませんでした。それが浪人中に『用心棒』と『椿三十郎』をテレビで見て変わりました。こんなにテンポの早い日本映画を見たことがなかったのです。

黒澤明がどう監督になったのか知りたくなりました。「映画学校に行っても駄目だよ。人間はどういうふうに成長して善悪を決めていくのか、その人間を研究しないと映画監督にはなれない」と語っていたんですね。

浪人時代の河村さん

浪人中に目指した関西学院大学に入学できました。入学式が終わったその足で映画研究部に入部しました。8ミリ映画を撮って黒澤明にも見てもらうのをイメージして入部したのですが、当時はそんなクラブではないので半年で辞めたんですね。

ところが1年経つと、「映画を撮りたい」と言う先輩が現れました。そして主役に選ばれました。今よりも40キロぐらい痩せて見栄えの良い方の大学生でしたから選ばれたのでしょう。ここで映画がワンカットずつ撮っていくと初めて知りました。そして自分も監督ができると思いました。なので大学1年生にした青春時代の最大の失恋を映画にしました。これを黒澤監督にどうやれば見てもらおうと思い、8ミリ映画コンテストにも出しました。でもそれがほどなく落選。だから諦めたんですね。

 

『乱』の助監督応募に落選するが

黒澤明による助監督の募集

『乱』の制作発表が目に入り、同時に助監督募集もありました。「ある日の出来事」というテーマのシナリオを書いた人の中から3名を選び、『乱』の現場で育てる内容だったんです。もうこんなチャンスはないですね、これは合格するぞと。

神様がきっと用意してくれたと思い込んでいたのですが、これも落選しました。ただ、ちょうど同じ時期に1本の電話が入りました。忘れもしない6月1日です。

「黒澤明の『乱』という映画のメイキングビデオを作ることになったんですが、スタッフを探しています。やりませんか?」

大学時代に作った2本目の映画で監督をした先輩の友人からでした。レンタルビデオ屋でアルバイトをしていた映画少年でしたが、製作会社のヘラルドに企画を持ち込んだら採用されました。『乱』の公開日は1年後でしたが、それまでの1年間は夢のような日々でした。

 

黒澤明との初対面

姫路城のロケーションが始まる前日に到着しました。ホテルのロビーで黒澤監督に紹介されました。夢に見た黒坂監督との出会いです。でも僕はそこであまり興奮しすぎて、歓声を上げるようなリアクションをしたらプロとしてバカにされると思い込んだんですね。だから何とかその喜びを表に出さないようにしながら黒澤監督と握手したんです。今から思えばなんと残念なことをしたんだろう。ニコニコ笑いながら握手すべきだったと後悔しているんですけども、黒澤監督にはかえって失礼だったのではないでしょうか。

 

矍鑠な黒澤明

俳優・油井昌由樹、カメラマン・谷口裕幸、そして本人

次の日から撮影です。スタッフが100人ぐらいました。もう74歳だった黒澤監督ですが、1から10まで指示するんですね。カメラポジションを決めて、助監督たちをスタンドインに立てる。俳優の位置でセリフを言いながら、「ここで止まって」、「こういうセリフを言って君はあっちに走って」、「このセリフに対してこういうリアクションをしてみてください」という歳を感じさせない姿を見ました。十数人いた老頭役の脇役集団にも演技指導を欠かせません。また、劇中で道化師のような狂阿弥役を演じたピーターにも黒澤監督が目の前で演じてみせます。それをピーターがもっとコミカルに演じたので、とてもにこやかに魅入っていました。そんな日が100日以上続きましたが、背中を見て学んだ気がしましたね。

僕たちビデオ班に対しては特に指示はなかったのですが、1回か2回だけ、「ここは俯瞰で撮った方がいいんだよ」、「これはカメラの後ろから撮った方がいいんだ」という言葉をかけてくれました。いかにスタッフの邪魔にならずに撮影していくということに心がけたので、黒澤監督に叱られて途中で追い出されるようなことありませんでしたし、スタッフから信頼を得ました。

 

フランスからもう1組のドキュメンタリー班

『乱』の現場でマイクを持つ河村さん

10月の末からその時は富士山のふもとに炎上される城のセットが組まれていました。1ヶ月だけフランスのクリス・マルケル監督を中心にドキュメンタリー班が現場に入りました。僕たちアマチュアのチームと違ってですね、いわゆるプロフェッショナルなカメラマン録音と監督。監督が随時指示を出していました。

スタッフの邪魔にならないように、という心がけはありませんでした。移動車というカメラを乗せるレールがあるのですが、それをスタッフが運んでいる最中に首を突っ込んで撮ったりしていたので、気を遣っていた僕らからするともうヒヤヒヤしましたね。

完成した『A.K.』というドキュメンタリーを見て分かりましたが、現場でいくつかテーマを決めて後で編集してまとめられるように機敏に対応していたんですね。自分の担当している領域を超えて、みんなが協力して作る黒澤組の体制をうまく表現していました。

それ他の取材班は許可されていません。合戦場面の撮影中にマスコミ開放日が2日あっただけです。テレビの番組で他に映像が必要だったら、公式に取材をしている我々からマスコミに提供しました。

 

ビデオテープと引き離される

1年撮影した末、いよいよ150時間のビデオテープを一般公開するために編集する時期に入りました。

メイキング映像の製作費はヘラルドエースや黒澤プロダクションが出したわけでもなく、私達が借金をしました。ビデオテープとカメラ機材を買い、ヘラルドから宿泊費を借りました。まずは借金を返すため、フジテレビの番組を作りました。メイキング映像はそれを基に編集する予定でした。

そこへ黒澤エンタープライズがやってきました。

「君達にこのビデオの編集する権利ははない」と言い出したんです。黒澤監督が写っているので、著作権とはまた違う編集権があるというのです。そして150時間のビデオを持って行ったのです。

僕たちは黒澤プロの言うことに盾をつく立場ではないと当時は思っていました。これは一般的にも広く勘違いされていると思いますが、被写体に編集する権利があるのでしょうか。例えば、田中角栄が写っているニュースは田中角栄に編集権があり、麻原彰晃を取材したニュースの編集権はテレビ局ではなく麻原彰晃にあり、そして黒澤明を取材したものの編集権は黒澤明にあるかどうか 。当時はそういう反論も思いつきませんでした。

黒澤エンタープライズで当時の社長だった川村蘭太の著書には、合法的に奪ったと書いてあります。ですが、実際に合法だったのか定かではありません。

その後、黒澤エンタープライズは『メイキングオブ乱』というビデオを製作します。黒澤久雄さんがプロデューサーを務めました。製作にあたっては私達カメラマンの意見を一切伺いませんでした。彼らが初めて見るビデオを150時間通して見るだけでも大変だったと思いますし、そのビデオをどうまとめればいいか分からなかったと思います。

1985年に『メイキングオブ乱』がVHSで市販されていました。ただそんなに評判が良くなかったので、すぐ廃盤になりました。2006年に東宝から黒澤明DVDシリーズで復活するまでは忘れられた存在でした。

1年掛けて撮影した内容をより良くしてくれると願い、ビデオテープを持っていかれるのを黙認していました。作品化に関わらなかったことは悔しく、そして残念だったという気持ちは当然ありました。ただ自分の中では1年間黒澤監督の映画作りを見て黒澤組での映画の作り方を勉強させてもらいました。いよいよ次は自分が映画監督になるために何をすべきか考えました。

 

映像業界に入ってはみたけれど・・・

映像の仕事のために東京に出てきて、黒澤組で出会ったスタッフの紹介でワイドショーの取材ディレクターを始めました。1985年は40年のテレビ史の中でもワイドショーが盛り上がった1年でした。6月に豊田商事の社長が刺され、8月に日航機が御巣鷹山に墜落し、9月にロス疑惑の三浦和義が逮捕されました。

ただ、自分のやりたいことではないと思いワイドショーを半年で辞めました。次の年からテレビドラマの助監督をしました。もちろん黒澤組と比較はできませんが、低予算、少人数、そしてスピーディーに映画を撮影するイメージで修行する毎日がとても面白く、助監督というポジションの仕事を2年ぐらい続けました。

とにかく映画撮影は現場が楽しいんです。ただ、完成した作品が素晴らしいかは別なんです。楽しい現場にいながらも、いい作品になるか判断する能力がないとつまらない作品を作ってしまいます。自分のやっている仕事の中で首をかしげることが多くなりました。そして19歳の時に読んだ「人間を研究しないと本物の映画監督になれない」という黒澤明の言葉が蘇りました。

だから次は、医者が新しい感染症に対して最新の治療法を学べる「医学映画」というジャンルに足を突っ込みました。例えばマウスの体を顕微鏡で撮影して、1日かかる白血球の状況を30秒のタイムラプスで見せました。医者に見せる映画に関係するようになり、医学の神秘性を学ばせていただきました。

その後はジャングル撮影隊からの相談から受けて、富士山を捉えた「科学映画」を作りました。360度から撮影し、日本の四季の美しさを世界に見せたかったのです。雲が富士山の上に湧いてきて、夕方の夕日が赤く染まっていく過程を見せていきました。製作費が2億円ほどであり、しかもプラネタリウムでの上映に向けて普通のフィルムより幅が広い70ミリフィルムで撮りました。

 

ビデオテープとの再会

取り戻したテープの量は段ボール数箱にわたる

1998年に黒澤監督が亡くなりました。お別れ会では映像の制作に一番尽力してくださったプロデューサーの井関惺さんが「あのビデオどうなりましたか」と聞いたら「見つかった」と答えました。それまで僕らにはそのビデオの在処が知らされていなかったのです。

『乱』の現場で撮ったビデオが手元に戻ってきたので見直したら、当時の記録が蘇ってきました。とにかく素晴らしいものを作るために日々苦労している記録が目の前に再現されていきます。

やっとビデオが自分の手元に戻ってきましたが、当時の撮影に使用していたUマチックというビデオシステムがもう古かったので再生ができません。ベータカムという別のビデオシステムにダビングし直す必要がありました。ただ、その本数分のお金を出して買わないといけなかったのです。アメリカではフィルムのデジタル化が始まっていましたが、日本からビデオ450 本を持っていく費用もありませんし、日本国内では同様の取り組みがまだありませんでした。

 

決死の覚悟

さっき申し上げた「医学映画」や「科学映画」などの仕事を長年しているうちに劇映画を監督する機会を失いました。そして黒澤監督のビデオは手元にあるけれど、使うことができません。

気がついたら2020年になっておりました。

胃がんになりました。同時に、コロナが広まりました。抗がん剤で治療していくと免疫力が落ちると聞きましたが、もしその時にコロナに感染したら間違いなく死ぬと思いました。黒澤監督の『生きる』では胃がん宣告を受けた主人公が残された期間に何をするか悩む物語ですが、私もガンが判明してから2日間は「死ぬ」と思い、その主人公の心境になりました。その後は、私の胃がんは初期に発見されたこともあり、『生きる』の時代と違ってコロナで肺を患うことさえなければ悲観することはないとお医者さんから言われました。

『生きる』から学んだことは、ただ自分の快楽を刺激するために残りの時間を使うということの虚しさ。そして主人公が「まだ自分にもやれることがある」と言って生き抜いていく姿。

「死ぬ」と思った2日間は「残りの期間で何を作ることができるのか」と考えました。借金するなら自分が劇映画の監督をやることよこの黒澤監督の記録を見てもらえるように1本の映画にして発表したいと思いました。

1998年にビデオが手元に戻ってきてから作品化する気持ちは、実はあんまり湧かなかったんですね。どうせなら、このビデオを未編集のまま世界中の人にいつでもどこでも見られる状況を作りたかったのです。具体的に言うとYouTubeでノーカットで流すことで『乱』の撮影現場をライブ放送のように楽しんでもらいたかったのです。

 

黒澤組の反対を押し切って

YouTubeに流し始めたのは2006年です。ちょうどその頃からビデオのDVD化は安価ではないですが、できそうになりました。

150時間の撮影した中で手元に返ってきたのは70時間しかないことが分かりました。70時間分だったら自分が借金してDVD化できるかもしれないと考えました。当時の収入をはるかに超える借金ではありますが、何とか70時間分のデジタル化を1年程かけてYouTubeにアップしました。

黒澤監督が独裁者のようにスタッフをこき使い、贅沢な予算でわがまま放題だったという勘違いがありましたが、自分の中ではそれが許せませんでした。黒澤監督の死後に評論家から関連本が出てきましたが、「黒澤天皇」と揶揄するような表現もありました。そういう人に、のびのびと映画を作る本当の黒澤明を知ってもらいたいのです。

2006年に『メイキングオブ乱』のDVD発売にあたって、黒澤組を支えたマネージャーの野上照代さんに取材されました。そこでYouTubeを通じて世界中の人に黒澤明の映画作りを知ってもらい、映画監督を目指して欲しいと話しました。野上さんは黒澤監督をよく知るが故にこうに答えました。

「ビデオを見たぐらいで天才・黒澤明が生まれるわけないよ」

黒澤監督になりたいと思うこと自体がおこがましい、みたいにおっしゃったのです。黒澤監督は自分の映画作りを見せるために研修生3人を募集したのでしょうし、このビデオを後世に残すことで、未来の映画作家を産む上で役に立つと思ったから僕たちにビデオ撮影を許可されたはずです。けれども、その周りにいた野上さんや、『乱』以降の作品で助監督をされた小泉堯史さんは、ビデオが役に立たないとおっしゃたんです。正直、とてもショックを受けました。

でも、このビデオから「監督とはこうあるべきだ」と見た人は気付くと信じております。

 

映画とは

単に五感を刺激して、ジェットコースターのような瞬間的な喜びだけのために映画芸術があるわけではないと思います。普段の実態では出会うことのない人物や空気に接することができる。そういう疑似体験で映画を観る価値が出てきます。

映画監督は1つの職業をこなしていくのではなく、観客にとある人生を体験させるためにリアルな空間を撮影現場で作ってカメラで切り取っていきます。それを見せてくれたのが『乱』の現場でした。ある意味、映画作りで神の創造の過程を疑似体験できます。そして、他人の人生を見る観客に心の成長をもたらすのが映画体験です。

 


本取材・映画化のお知らせ

インタビューを撮影する取材班

インタビュー映像は現在、ショートドキュメンタリーとして編集中です。すでに編集した冒頭箇所は1月中に高円寺にあるシアターバッカスにて、河村さんのドキュメンタリー映画と併せて上映されました。
完成まで一途に編集しているので、乞うご期待ください。

スタッフ

監督:ローランド リチャード

撮影:Erjol Muarem

録音・スチール:Michael Herrington

編集・画質調整:ローランド リチャード

The following two tabs change content below.
ローランド リチャード

ローランド リチャード

1994年、東京生まれ。大学時代にリッキーレポートを始める。現在は会社勤めしている。 社会人生活を始めてから更新が途絶えるものの、また新しい記事を投稿したい思いを持っていた。

Comments

comments

ローランド リチャード ローランド リチャード

Top